2019.09.11
<癒し> ミヒャエル・エンデ

 考えさせられる答え
 もう幾年もまえの話だが、遺跡発掘のために中米の内陸へ探検行した学術チームの報告を読んだことがある。携行する荷物の運搬のために、幾人かのインディオを強力として雇った。この探検全体にはこまかな日程表が組まれていた。はじめの4日間は思ったよりも先へ進めた。強力は屈強で、おとなしい男たちである。日程表は守られた。だが5日目に突然インディオは先へ進むことを拒否した。インディオたちは黙って円になり、地面に座ると、どうしても荷物をまた担ごうとしなかった。学者たちは賃金を上げる手に出たが、それも功を奏しないとわかると、インディオたちをののしり、最後には銃で脅しさえした。インディオたちは無言で円陣を組み、座りつづけた。学者たちはどうすればよいかわからなくなり、ついにはあきらめた。日程はとっくに過ぎていた。そのとき--二日過ぎていた--突然、インディオたちはいっせいに立ち上がり、荷物をまた担ぐと、賃金の値上げも要求せず、命令もなしに、予定された道をまた歩きだした。学者たちはこの奇妙な行動がさっぱり理解できなかった。インディオたちは口をつぐみ、説明しようとしなかった。ずいぶん日にちがたってから、白人の幾人かとインディオのあいだに、ある種の信頼関係ができたとき、はじめて強力の一人が次のように答えた。「早く歩きすぎた」とインディオは話した。「だから、われわれの魂が追いつくまで、待たなければならなかった」
 わたしたち、つまり工業社会の”文明”人は、この”未開な”インディオから多くを、とても多くを学ばなければならないと思う。外なる社会の日程表は守るが、内なる時間、心の時間に対する繊細な感覚を、わたしたちはとうの昔に抹殺してしまった。個々の現代人には選択の余地がない。逃れようがないのだ。わたしたちはひとつのシステムを作り上げてしまった。ようしゃない競争と殺人的な成績一辺倒の経済制度である。一緒になってやらない者は取り残される。昨日モダンだったものが今日は時代おくれと言われる。舌を垂らしながら、わたしたちは他の者を追いかけ、駆けているが、しかしそれは狂気と化した円舞なのだ。一人が駆ける速度を高めると、みんな速く走らなければならない。それを進歩とよんでいる。
 しかし、そんなに急いでわたしたちはどこから去ろうとしているのか? わたしたちの魂からだろうか? 魂なら、わたしたちはもうずいぶん遠くに置き残してきた。だが、そのためにできた空虚さは、身体をもまた病気にする。麻薬薬物や騒音に、失ったものの代わりをもとめるのだ。クリニックや精神病院はいっぱいになる。魂を失った世界、これがわたしたちの目標だったのか? みんなで力をあわせて、この狂気の円舞を止め、ともに円陣を組んで地面に座り、黙って待つことが、本当にできないのか?
 もうひとつの答えは、先頃、文化人類学者の友人が話したことだ。この答えもまた、インディオの女性からえたものである。数多い旅のひとつで、その友人はある山に行き当たった。山の頂にインディオの村落があった。しかし、あたりにただひとつの泉は、山のすそ野にあった。村の女たちは毎日半時間かけて山を下り、水を満たした瓶を持ち、また一時間、山を登らねばならなかった。友人は女たちに、はじめから村をすそ野の泉のそばに建てたほうがりこうではないかとたずねた。女たちはこう答えた。「りこうだとは思いますが、楽をする誘惑に負けるのではないかとこわいのです」
 この答えは、前の話の答えよりもさらにわたしたち文明人を当惑させるかもしれない。楽をすることがなぜ誘惑なのか? 現代の洗濯機、自動車、エレベータ、飛行機、電話、ベルトコンベヤー、ロボット、コンピュータ、ひとことで言えば、わたしたちのこのモダンな世界を構成しているものはすべて、楽をするためにつくられたのではないだろうか? これらはみんな、わたしたちの生活を楽にし、めんどうな仕事を代わりにすましてくれ、もっと大切なことのために時間を与えてくれる。そうではないのか? わたしたちを解放してくれるのではないか。たしかにそうだ。ただ--なにから解放してくれるのか? ひょっとしたら、こともあろうに本質的なものから解放するのではないだろうか? そうだとすれば、それは何なのか? 一風変わった意見を述べたあのインディオ婦人のほうが、本当はわたしたちの誰よりも、もっともっと自由だという気がしてならないのは、どうしてなのだろう?

引用図書;ミヒャエル・エンデ 著、田村都志夫 訳:エンデ全集18 エンデのメモ箱 上:岩波書店,1998.

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